軍人を越えた永井師団長の熱き思い「この土地と人々を死なせない」
2026年(令和8年) 5月24日(日)
山から吹き下ろす風が強い
ビュー_ビュー__牧草のが波立つ
今日は、町で追悼式(慰霊祭)が在る
忘れられない「5月24日」___144柱の魂に祈りを込める
しかしその陰に、第七(しち)師団長=永井来蔵(ながい らいぞう)を忘れてはいけない
【「精鋭」と呼ばれた第七師団】
旭川を拠点とした第七師団は、北海道の厳しい寒さの中で訓練を積んだ「雪中の精鋭」として知られている
明治37年(1904年)の日露戦争では、激戦地として名高い「二〇三高地」の攻撃に加わり、多大な犠牲を出しながらも勇猛果敢に戦った
上富良野の入植者たちにとっても、第七師団は最も身近な軍隊でした。徴兵検査を受け、旭川の師団に入隊することは、当時の青年たちにとって避けては通れない、そして名誉な義務と考えられていた時代だった
「軍馬」を育てるため、上富良野では馬の生産が盛んになった、そして 兵士たちが食べる米や、馬の餌となるエンバクなどの作物を旭川へ供給することで、開拓間もない上富良野の農家にとって貴重な現金収入源となっていた
町内にある神社や記念碑には、第七師団の一員として戦地に赴き、命を落とした方々の名前が刻まれている
【1926年(大正15年)5月24日(月)】
噴火の知らせを受けた永井師団長は、即座に救援部隊の派遣を決定した。当時は現在のような高度な通信網もヘリコプターもない。それでも、旭川から上富良野へ向けて工兵隊や衛生隊を次々と送り込んだ判断力は、まさに「地域の守護神」としての自覚があったからだ。
永井師団長自身も現地を視察し、悲惨な状況にある被災者を励ました、そして、師団長が「復興を支援する」という強い姿勢を見せたことで、絶望して離農を考えていた多くの入植者たちが、「もう一度この土地で頑張ろう」と踏みとどまる大きな精神的支えになった
今、私たちが上富良野の美しい風景を楽しんだり、美味しい農産物を食べたりできるのは、100年前の未曾有の危機に際して、「見捨てずに助ける」と決断した当時の師団長や兵士たち、そしてそれに応えて泥の中から立ち上がった入植者たちの絆があったからだ
上富良野の人々にとって、第七師団は「息子たちが送られる場所」であると同時に、災害時には助けに来てくれる、非常に距離の近い存在だったはずだ
祖母が生き抜き、永井師団長が決死の覚悟で生かしてくれた、この大地で私は生きる
今日ばかりは、合掌して深々と、山に頭を下げる。
コメント
コメントを投稿